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筋肉ドクターの気まぐれ日記

Killing Timeに日記を書き候
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05.16.10:28

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  • 05/16/10:28

01.29.12:20

反勝利至上主義

スポーツで勝敗を気になるファンも多いと思う。
しかし、スポーツの本質は勝敗ではなく、スポーツマンという人財を作るということで、スポーツを通して起こるドラマに価値がある。

商業スポーツのオリンピックなどは、勝敗によりメダルの色も変わり、国によってはその選手の経済状況、人生にも大きな影響がある。

もともと、あまりスポーツの勝敗に興味が無い性格である私ですが、スポーツマンシップを学んでから多少スポーツに興味はある。しかし、メディア情報は商業スポーツ的な話が多いなと。

プロでもない私がスポーツをやる時は、勝つこともあれば負けることもあるで良いわけです。
ただ、真剣に勝とうとする姿勢が重要なわけです。


そういった商業スポーツの影響か、筋トレでも他人と比較される方が結構おられる。
筋トレなんてボディビルやパワーリフティングでもやってなければ純粋に勝敗全く関係ありませんから、自分の身体に有益な運動としてだけやって頂ければ良いと思うのですが。


どうも、欧米の資本主義は結果主義的なところがスポーツでもビジネスでもある気がします。
しかし、根本的には自分がどうかっこよく気持ちよく生きるかが重要なわけですから、後ろめたいことして結果出すくらいなら正々堂々と負ければ良いと私は思うわけです。

所詮、スポーツも芸術も本来遊びですから。

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01.24.11:48

自分の心の問題解決ほどチョロいものは無い

心の問題というと、何か外から触れないブラックボックスが壊れていると思う人が多い気がする。

私の場合、石田先生の心の科学をベースに発展させてきたので、そういう不思議なものっていう感覚が無かったのが、考え方に良い影響があると思う。

そう、考え方一つが心の話ってのに気付いていない。


最近、96歳の祖母に年齢を聞くと、「確か200歳は超えてたと思うよ」とのこと。
これが本当なら、人類史上かなり稀な高齢であり世界中で大騒ぎされそうなのに、本人はそう思っているわけだ。
こういう思い違いをしている人を、高齢なら認知症とか言うんだろうけど、私も含めて誰しも多少の思い違いを持っている。
それは、まぎれもなく心の問題と言えるでしょう。


しかも、思い違いを修正できればまだ問題は軽いのですが、修正できない思い違いはより心の問題です。
人間頭が固いってのは、心の問題としては重症でしょうね。

前回のセミナーでも伝えましたが、自分の心の問題ほど簡単に自分で治せるものは無い。自分の考え方一つですから。

ただ、それだけだと思うのですが、皆さん難しく考えすぎでは?

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01.03.20:30

スポーツマンシップと武士道

年末に五輪書を読んでいて感じたのですが、スポーツマンシップと武士道の徹底的な違い。
というか、根本的に違うんだなと、今までも聞いてはいましたが、強く感じました。

スポーツというのはあくまでも、Play the game、ゲームで遊ぶってことを入り口とした、共感を育成する人材育成ツールだ。
一方、武士道や修身、体育教育は目的は人を殺すこと。命のやりとりをすることだ。修身、体育というのは、富国強兵の教育システムなので、いかに戦争で勝つか、その人材育成だ。

五輪書には、構えだなんだという流派なんて後手に回るだけだから、先手を打って殺せば良いという方法が論理的に書かれている。
この、論理性が宮本武蔵の当時としては特異的な資質だったのだろう。ある意味、殺すという目的のためには手段を選ばない。
命のやりとりがかかった真剣勝負のための精神であり、練習や待ったは通用しない。負けたら終わりだ。

一方、スポーツというのはあくまでも、ルールで選手の安全は守られているので、ルールを尊重する人の方が尊重される存在である。真剣勝負で負けても命を取られることはない。もう一度復活することも出来る。


そこで感じたのだが、昭和の経営者ってのは、どちらかと言えば武士道教育を口にする。松下幸之助は、経営者は要するに責任を取る人、部下が失敗したら命をかけてその責任を取る覚悟がある人と言っている。これは、明らかに武士道精神だ。

しかし、スポーツマンシップから言えば、そういった命のやりとりが、経営の話題には出て来ないだろう。


現代社会に必要なのはきっとスポーツマンだろうが、武士道精神を持つ経営者の凄みがあったから日本の高度経済成長があったのかなとも思う。


そう言う意味では私に武士道精神は皆無かもしれない。せめて、スポーツマンシップを持ちたいなと思う年初の気持ちでした。

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12.19.19:45

最新の布袋が、最高の布袋!

布袋寅泰さんは、いつも「最新の布袋が、最高の布袋!」とおっしゃっている。

ライブでは、自分は「最新の布袋が、最高の布袋!」とみんなに思ってもらう、言ってもらうために頑張っていくと話される。
そして、オーディエンスのみんなも次に会った時に最高の自分になって来てくれよな!とおっしゃる。

本人は、BOΦWYからソロになり、COMPLEXをやり、またソロになり今井美樹などのアーティストのプロデュースもやり、映画「Kill Bill」のテーマ曲になり、震災後はCOMPLEXを2日だけ復活し復興支援し、今年から世界へ向けてイギリスへ移住し活動されている。常に進化していってる感じがする。

ちなみに布袋の世界デビューアルバム?「New Beginnings」の発売日は今年の10月1日で、うちの整形外科スタートはその翌日だ。揃えても良かったのだが仏滅は良くないとおっしゃる方が多くて。

最近のライブで、「やるだけやっちまえ!」を歌われているとき、私の方を見ながら歌っておられるように錯覚した。そして、「馬鹿な自分」というところを「馬鹿なおまえ」と変えて歌われた時に、私の方を見た、いや、これは錯覚ではなく、絶対俺を見た!
しかも、計画性もなく私はやるだけやっちまった開業中だ。絶対に俺に言ったはずだ!!

と妄想などを抱きながら楽しんでいる。

いつも、布袋のライブは私にとって、最高の自己啓発だ。

皆さんも布袋を聞き、最新の自分が最高の自分になって、布袋のライブへ行こうではありませんか!(って何の勧誘やねん!!)

最新の筋肉ドクターが、最高の筋肉ドクターを目指してやっていこう!

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12.09.11:56

言葉

ちょっと前に参加したセミナーで言語には
①口頭言語
②行動言語
③器官言語
があるそうな。

こう考えると、真言密教の秘技、「身口意」も口だけじゃなく、すべて言語と言えるのかもね。

看護婦さんは行動言語を非言語的コミュニケーションとか言うてたような。
言葉的に矛盾しますが。


言葉って定義が曖昧だと、言ってる内容は分かっても意味は正反対だったりしますよね。


最近思った、右翼と左翼の思想。
右翼はまあ、戦前の日本の大東亜共栄圏は素晴らしい考え方と思うかもしれない。
左翼は、日本なんか無くなってグローバル化してアジアは一つになれば良いと思うかもしれない。

結局、アジアは一つ思想は一緒じゃないの?なんてね。
言葉の違い?

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11.20.10:26

論理性

科学の特徴の一つに挙げられる論理性ですが、空理空論というのもある。

STAP細胞のようにファンタジーの領域を出ない論理もある。

安岡正篤が理にもいろいろあるが、一番下のいくらでも作れる理に論理を挙げている。
論理を学ぶことが現代教育では重要視していると思うが、彼は重要視していない。

次に、自分の体験と照らし合わせて腹に落ちる理を事理と呼んでいる。
科学理論の多くはせいぜいこの事理止まりであることが多い気がする。

科学理論を工学、医学に落とし込む時に必ず実験が欠かせないのは、論理はあくまで空理空論で、現実的事実と相違があるからではないだろうか。

そして、実際に自分の人生で使える理のことを道理と言い、これを一番大切な理であると安岡正篤は言っている。

科学理論の中の道理ってなんだろう?
しかし、科学の道理ってそんなに多くない気がする。
例外のある理も道理にはなり得ない。
これが、KIS原則と私は思っている。

KIS原則で単純に考えろと言うと、論理もくそもあったもんじゃない常識で考えるみたいに思う人がいるが、私にとってはそれは単純じゃない。何故と聞かれて常識だとしか答えられないものは複雑だ。

単純な論理で間違いなく現実で自分が使える理、道理こそがKIS原則。

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11.15.01:43

期待値で生きる

「パスカルの賭け」というエネカンで新宮先生に教えていただいた話がある。

これは、神がいるかいないのかという話で、どちらが真実かではなく、どちらの方が期待値が高いかという話です。
期待値というのは確率の話で、どれくらいの見込みの値かってのを表すものです。

神がいるとすると、神がいつも自分を見ているとなると、善行に励むことになり、死んだ後で神に天国に導かれることになる。期待値はそこそこプラスなものになることが予想される。
で、神がいないとして、では、この世で人の迷惑も省みず、好き勝手欲望のままに生きて死んだら、神様に地獄に行かされることになる。これは永久の苦しみを表し、期待値はマイナス無限大となる。
となると、神がいるとする方が良いのではないかという話だ。

この話はそもそも天国と地獄なんてものがあるのかみたいなところが抜け落ちているので、一概に納得出来るものでもないが。


しかしこれは、健康に対する期待値として考えるときにも役立つ。

ストレスが万病のもとと考えて生きていると、ストレスが無い日など無いわけで、更に何か病気になるのではと怯えながら、更なるストレスを抱えて生きていかなければならなくなる。期待値的にはかなりのマイナスだ。

逆にストレスは健康のもとと考えて生きると、ストレスがあった日は、ああこれでまた自分は成長できるんだ、健康レベルが上がるんだと安心して生きていける。これは期待値はプラスだ。

正しい、正しくないではなく、期待値で考えて良い方の考え方を選ぶというのは、間違ってようが、生きる上で重要に思う。


例えば最近ならば寒い日が多くなってきたわけですが、寒いと風邪を引くと思うのと、寒いと身体が鍛えられて風邪を引かなくなると考えるのとどちらの期待値がプラスか。
考えれば後者なのは、ストレスと同様に分かる。

腰痛なども、運動すると腰痛になると思っている人と、運動すると腰痛の予防治療になると思っている人では、期待値がプラスなだけでなく、怖くて動けない人生と比較すると、動ける人生の充実度はかなり更なるプラスが予想される。


で、実際に期待値が高い方が医学論文的には真実だったりする。


科学的に正しいか正しくないかに拘るように教育されている我々だが、人生、特に健康面で期待値で得する考え方をするようにすれば、本当は間違っていようと正しい気がするという話。

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08.08.16:22

理屈

私が道理、理屈を求め始めたのは、やはり、筋トレのやり方が分からなかったからだ。

ウィダー法読んでも、色々な方法を紹介して、結局人はそれぞれ違うのだから自分にあった方法でみたいな、何の理屈も無い話に終わる。

そこで、筋トレの本質は何か?という疑問を理屈で考え出した。理屈の通らない理論は排除して、真理を求めた。

そして、医療に従事し出したり、トレーニングマシンを作ったりしている。

しかし、医療に従事する人の中にも、トレーニングマシンを作る人の中にも、理屈が欠如している人がいる。

方法だけ覚えて、何故やるのかとか考えないから、ウィダー法みたいになるわけで、その昔サイベックスのマシン開発者の話を聞いたときでも、人間の身体の動きとか本質と関係ないところに注目している気がした。

傷の消毒とかも、無菌状態にしたいなら、消毒の無菌状態が2時間ももたないことを考えれば、1時間ごとに消毒しないと意味がないわけで、1日に1回消毒することに理屈が無い。

もちろん理論と現実が違うことはよくあることだが、単純に現在理屈で分かっていることを無視して、やってみないと分からないと言うようなのは時間の無駄に感じる。

そういう効率化のためにも理屈は使いようだ。

そういうのが分からない人を、理屈の通じない人と言うんでしょうな。

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08.01.14:20

欧米化

これ↓って凄いとは思うけど、これが西洋思想だなと何となく思うんですよね。

「すべての人の体の障害を技術的に解決していこう」というビジョンってあんまり東洋思想に無いんじゃないかな?
障害を持つ人が健常者と同じように技術的にするっていうのが西洋的平等、西洋的人権なんでしょうね。

東洋思想というか日本的に私は違和感を感じるのは、違いを認めて調和する和の心、違う中で本人も調和するために努力し、それと調和する社会を作るみたいな中に美しさを感じる気がするのですが。

本来、東洋思想は自然と調和する生き方を模索するもので、西洋思想のように自然を征服するという発想は無いですよね。

ボディビル的からだ作りについても、欧米って結局見た目のためなら薬であろうが美容整形であろうがじゃんじゃんやったろうみたいな感じがしますが、日本のボディビルって欧米に比べて異様にナチュラルが多いですよね。
やはり、自己研鑽して達成するところに美しさを感じるところがあるんじゃないでしょうか?研鑽した肉体勝負で、技術を総動員してお金かけた方が勝ちみたいなのに美しさを感じないんじゃないでしょうか?
もちろん、ドーピングはルール違反なので順法精神が高いのもあるかもしれませんが、技術的に総動員して解決すれば良いっていう思想って欧米化じゃないでしょうか?

私が生業としている医療ってのも西洋医学って言われていますし、そういう西洋思想に基づいていると感じる部分も多いわけです。
調和するからだ作り、健康づくりというよりも、とりあえず、手術であろうが薬であろうが技術を駆使して正常値に戻せみたいな感じですよね。

学生時代の学科目なんてのもほぼ西洋思想の流れですから、そこで優秀なお医者さんなんて欧米化している気がするんですよね。思想が野蛮と言うか、自分が技術で何とかするのが最高みたいな。

名前は欧米化しているアイアンクリニックですが、日本的医療も追及しようっと。



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08.01.02:03

言葉の定義

こころの健康の話をする時に、言葉の定義がしっかりなされずに心の話がされているのが気になることをよく言ってます。
しかし、言葉の定義にこだわり過ぎると、感覚的なものを表現できなくなる場合もある。

人間、思考に言語を使っているのは明らかで、ある程度きっちりと定義付けしないと、他人との共通理解が得られないが、しかし、その人独特の感覚のようなものが定義でがんじがらめになると失われる気がする。

最近の集団的自衛権も言葉の定義で議論しているだけな気がする。本質は、他国が日本の脅威になった時に、武力を用いてでも防衛するって話でしょ。
個別事例が集団的自衛権か個別的自衛権かなんて言葉の定義は空虚に思う。

逆に、運動の3要素の強度、容量、頻度は明らかに物理学的表現を避けて、感覚的文学的な表現だ。
これが、頭でっかちな医療が筋力を強化できない原因になっている。

何事も現実の本質を表す、道理、胆識に繋がる言葉の定義だけでいい気がする。それがKIS原則。

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