11.23.12:32 [PR] |
05.04.03:58 絶対論:二元論 |
本来、日本的というか東洋的なものは絶対論な考え方で、西洋的なものは二元論というものだそうだ。
科学という考え方は何でもまず分けて考えるという二元論、多元論が考え方の基礎にあるので、やはり、西洋で発展するべくして発展したのかもしれない。
しかし、絶対論的な考え方というのは分けない、差を考えないということだから、あるがままであって、違いを分けないってことだと思う。
自分は健康だ、病気だというのも二元論だ。自分は自分という人間であるというだけの絶対的な存在と考えると、自分は自分で健康でも病気でもない。
自分は病気だという時に健康な自分というものを対象に考えているから思う感覚だ。
この、自分の健康というものに対しては、この絶対的な自然という考え方をしている方が、心的には健康なのかもしれないとふと思った。
まあ、一度二元論を学んでしまうとなかなか絶対論に戻れないものだ。分けたものを知ってしまったのだから。病名が増えるとその病人が増えるのもそのせいじゃないだろうか?
私は性同一性障害ってのは無いと思っている。差別とかじゃなくて。
男と女という2種類の人間がいるから、自分は男、自分は女と思うわけで、自分は自分という絶対論で考えると、自分は自分であって男だ女だと分ける必要がない。ただ、男は男で女は女であるだけだ。
なのに、自分は身体は男だけど心は女、またその逆なんてのも二元論的な考え方だからこそ出てくるんじゃないだろうか。
心が二元論だから、自分という男は男であることに嫌悪感を感じるから心は女だなどと思うんじゃないだろうか?
仮に、マクロスじゃないが、完全に男ばかりの社会に生まれて自分は心は女だと思えるだろうか?無理だろう。だって女というものが無いのだから。
戦国武将も側小姓などと少年を付けて性的な遊びをしたそうだが、それは戦国武将がオカマではなくて、男だけどそういう遊びをするっていう習慣だっただけで、心は女ではない。
現代にそういう感覚の戦国武将のような人がいれば、ある種の精神病と分類されるんだろうな。
精神が健康であるためには二元論を絶対論に戻してみる方が自然で良い場合もあるかもね。
科学という考え方は何でもまず分けて考えるという二元論、多元論が考え方の基礎にあるので、やはり、西洋で発展するべくして発展したのかもしれない。
しかし、絶対論的な考え方というのは分けない、差を考えないということだから、あるがままであって、違いを分けないってことだと思う。
自分は健康だ、病気だというのも二元論だ。自分は自分という人間であるというだけの絶対的な存在と考えると、自分は自分で健康でも病気でもない。
自分は病気だという時に健康な自分というものを対象に考えているから思う感覚だ。
この、自分の健康というものに対しては、この絶対的な自然という考え方をしている方が、心的には健康なのかもしれないとふと思った。
まあ、一度二元論を学んでしまうとなかなか絶対論に戻れないものだ。分けたものを知ってしまったのだから。病名が増えるとその病人が増えるのもそのせいじゃないだろうか?
私は性同一性障害ってのは無いと思っている。差別とかじゃなくて。
男と女という2種類の人間がいるから、自分は男、自分は女と思うわけで、自分は自分という絶対論で考えると、自分は自分であって男だ女だと分ける必要がない。ただ、男は男で女は女であるだけだ。
なのに、自分は身体は男だけど心は女、またその逆なんてのも二元論的な考え方だからこそ出てくるんじゃないだろうか。
心が二元論だから、自分という男は男であることに嫌悪感を感じるから心は女だなどと思うんじゃないだろうか?
仮に、マクロスじゃないが、完全に男ばかりの社会に生まれて自分は心は女だと思えるだろうか?無理だろう。だって女というものが無いのだから。
戦国武将も側小姓などと少年を付けて性的な遊びをしたそうだが、それは戦国武将がオカマではなくて、男だけどそういう遊びをするっていう習慣だっただけで、心は女ではない。
現代にそういう感覚の戦国武将のような人がいれば、ある種の精神病と分類されるんだろうな。
精神が健康であるためには二元論を絶対論に戻してみる方が自然で良い場合もあるかもね。
PR
- トラックバックURLはこちら