11.27.02:42 [PR] |
04.17.04:39 改めて名文 |
「倹約と幸福」(小学館101新書)「巻の二
第六話 ストレスは健康のもと
ストレスは体に悪い、ということが常識になっている。ストレス学説の元祖ハンス・セリエはしかし、ある程度のストレスは「人生のスパイスのようなものだ」として一概にストレスを否定しているわけではない。
スパイス程度にしかストレスの効用は無いのか、かねてより疑問には思っていたが、幸福に関してのある討論会で、筋肉ドクターと自称する整形外科の医師から「幸福の反対は安静です」というサラリとした発言があり、なるほど!と確信を持つことができた。幸福、という抽象的な、あるいは哲学的(答えのない)問題にたいして、極めて具体的な、安静、が対比されているアンバランスなこの先生の表現は大変新鮮で面白い。
ストレスには、筋肉に力が掛る、肉体的なものと、イライラの元であるプレッシャーなど精神的なものとがあるが、先ず肉体的ストレスの大切さを考えて見よう。介護保険が大赤字というニュースが新聞に出るけれども、赤字でも、介護される人がそれで幸福になるならOKかも知れない。けれども、筋肉ドクターの説なら、筋肉の衰えを防ごうとするなら、なるべく筋肉を使うことを心がけるべきであり、安静にしていれば、筋肉はますます衰えるのである。つまり、介護イコール運動機能の衰えた高齢者をなるべく安静に、という方策の現在は、お金を使って老人の体の衰えを助長している、すなわち返って老人をイジメていることになっているわけである。痛くてもしんどくても、無理に体を動かすことこそ大切だというのが人体のメカニズムなのなら、老人はいやいやでも、とことん自分で身のまわりの事をこなすように、冷たく?見守ることこそ高齢者の為でもあり、それが本当の介護なのかもしれない。国の介護保険への支出もそれで減れば一石二鳥であろう。
宇宙飛行士は無重力状態で生活するのだから、筋肉には体重を支えるというストレスが掛らない。その結果、筋肉や骨に回復不能のダメージが生じるので長期宇宙滞在は出来ない。我々はいつも体が重いのは厄介だと思っているけれども、それが厄介である事、つまりストレスが不愉快である事こそ、体を健康に保てるように自然が設定した上手い工夫なのである。
結局、肉体的な健康のためには、ストレスは不可欠なのである。ジョギングとかスポーツジムとかで体を動かす健康法は、すべて筋肉にストレスを与えることなのだ、と理解すればこれは当然のことであり、健康すなわち体のハピネスはストレスに頼らねばならないのである。精神も、それが脳の働きとすれば肉体的ストレスと同様に、苦しい、きつい、という状態なしに健康すなわちはハッピーな状態に保てないであろうことは容易に納得できる。
「人生の楽しさは、消費する喜びプラス余暇の喜び、マイナス仕事の苦しみ、である」と提言した学者がいるが、このような思想が今の世の中では広く受け入れられている。しかし、一歩下がって考えれば、マイナスであるとされている仕事の苦しみ、いや、仕事に限らずとも、苦しみが無くて、消費と余暇とだけある人生なんて、とんでもないものだろうと気づく。
もっと考えを進めると、楽しみだけあって苦しみのない人生が「人生」であり得るか?という疑問も出る。偉い人の自伝は、ほとんどが若い頃の苦しかった体験の自慢話と、成功のきっかけの奇跡的なハプニングのストーリーである。若いころから恵まれて苦労なしに成功した話では、読んでも面白くないし、読む人はいない。だからそんな自伝は無い。若い時の苦労話は苦しいほど読者にうけるのである。さらに考えをおし進めるなら「成功」しなくても、一生苦労の連続であっても、苦労出来たことは幸せだった、という感覚も納得できる。
「安易な生活は清らかであり得ないのです・・・」というセリフがロシアの作家チエホフの劇中にあるが、この言葉がすぐに納得できるのは、清らかでなくても安易な生活に流されやすい我々の避けがたい行動が、実は求めている幸福を遠ざけているのだ、と心では理解出来るためである。トルストイも二十世紀の始めにインタビューに来た新聞記者が、文明は武器や快楽の具を作っただけでなく、人の労働を軽く、労働時間を短くすることにも貢献した、と述べたことに答えて、労働は善いことで、心身を健全にする非常に大切な事柄です、とのべている。
共産主義革命の元祖マルクスは著書、資本論、に革命の主要目的として労働時間の短縮を掲げているが、革命前の状況が酷過ぎたにしても、労働なくして幸福はない、という面がその後、ないがしろにされて来ている。仕事はストレスを伴うけれども、そのストレスは幸福の基でもあることを、忘れてはならない。安楽に暮して来た人が必ずしも長生きでなくて、仕事をし続ける人が長寿である例をよく見聞きするが「ストレスを伴う仕事は、健康のもと」とやはり言えるようである。
さらに精神的なストレスについて考えを進めると、喜びだけ有って悲しみの無い人生がどのようなものだろうか、という問いが出て来る。カール・ヒルティの「幸福論」は神を信じる事を第一とするキリスト教的な至福について書かれているが、そこにも一生運よく喜びにつつまれて過し、本当の悲しみを経験することの無い人生を送る人にはどこか「ちっぽけ、で平凡な感じがつきまとう」そして老年になるとそれが「人相にまで現れる」と書かれている。
幸福論とか、幸福について書かれた書物は、東西を問わず古来沢山あるが、それらを出来る限り集めて検討すると、人が生きていく上で誰しも求める「恋、富、名誉」の達成、所有への欲求を如何にして達成して行くのか、という問題が取り上げられ、それを「より沢山得る、得たそれらの喜びを持続させる、それらを一旦失い、苦労してそれらを挽回する」というような、幸福が書かれた書物が多い。しかし、それらと一味違い、「なぐさめられることのない苦しみ、悲しみの中に、喜びの感情からは得られない幸福が存在する」ということが、示されたり、述べられたものが、かなりの数ふくまれている。
人の心を打ち、読んで教えの得られるのはそのような、幸福論、であることは誰もが認めると思う。悲しみは、人の心に最も大きなストレスをあたえる感覚であり、本当の悲しみは、慰めることの出来ない悲しみである。人間にしか出来ない生き方は、ストレスなしには 存在しない、といえるようである。
人はみな、自分からは望むことのない「悲しみ」すなわち、最も大きなストレスをも、幸せにつなぐ、不可思議で、矛盾に満ちた、素晴らしい生きものであるらしい。
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