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02.08.23:32 師匠 |
今日はまた、飯室不動堂へ酒井雄哉大阿闍梨の護摩供に参加し講話を聴きに行った。
日々無常に時間は流れるという話から、自分を強くするためには今を真剣に生きなければならない、失敗というのは結局自分の責任で、自分をどうにかしようと思えば今をしっかり生きるしかない、知識と経験で知識偏重に世の中がなっているという話でした。
そして、そして、な、な、なんと、初めて大阿闍梨と話をさせて頂いた。
私がした質問は2つ。
「2千日回峰行の偉業を達成されているのですが、肉体的に気をつけたことは?」
ということと
「僧職でありながら、霊感を否定されているようですが、どのように考えておられるのか?」
ということを私のような若輩者が質問させて頂いた。
こんなペーペーのどこの馬の骨とも分からない私に一つの質問に5分くらいは時間を割いて説明して頂いたのではないだろうか?とても有難い話です。
一つ目の答えは「ない」ということだった。結局覚悟を決めてやれば出来る。今を精一杯生きるという今日の講話の話と同じことだと、教えて頂いた。やはり、千日回峰行をされるくらいですから、フィジカル云々考えるほど浅い覚悟ではないと、行をなさった本人からの言葉で思い知らされました。途中で辞めたら死ぬ覚悟でやる行ですから。甘く考えていました。
二つ目の質問は、まず、人間それぞれが同じものをみても捕らえ方が異なるという話から、御自分が常行三昧中に体験した好相の話や、予知や透視なんてものは動物の方が優れているので、できる人は「知恵遅れ」と捉えることも出来る。また、馬鹿の言葉の由来も教えて頂き、やはり体験の重要性を教えて頂き、霊感なんて捕らえ方であるという話を教えて頂いた。
行の話を本人から聞くと恐ろしく迫力があることを思い知らされました。千日回峰行なんて本で読んだりビデオで観たりしていましたが、大阿闍梨の仰る「かしこ馬鹿」に自分がなっていたんだと痛感しました。知識なんてもんは経験の足元にも及ばないことが実感できました。
エビデンスが、統計が、科学的にと知識でかしこ馬鹿になっている医療人が、個人の体験を馬鹿にするのもいかがなものかと痛感しましたね。エビデンスが出なくても崇高な体験は尊重すべきだと思いました。
日々無常に時間は流れるという話から、自分を強くするためには今を真剣に生きなければならない、失敗というのは結局自分の責任で、自分をどうにかしようと思えば今をしっかり生きるしかない、知識と経験で知識偏重に世の中がなっているという話でした。
そして、そして、な、な、なんと、初めて大阿闍梨と話をさせて頂いた。
私がした質問は2つ。
「2千日回峰行の偉業を達成されているのですが、肉体的に気をつけたことは?」
ということと
「僧職でありながら、霊感を否定されているようですが、どのように考えておられるのか?」
ということを私のような若輩者が質問させて頂いた。
こんなペーペーのどこの馬の骨とも分からない私に一つの質問に5分くらいは時間を割いて説明して頂いたのではないだろうか?とても有難い話です。
一つ目の答えは「ない」ということだった。結局覚悟を決めてやれば出来る。今を精一杯生きるという今日の講話の話と同じことだと、教えて頂いた。やはり、千日回峰行をされるくらいですから、フィジカル云々考えるほど浅い覚悟ではないと、行をなさった本人からの言葉で思い知らされました。途中で辞めたら死ぬ覚悟でやる行ですから。甘く考えていました。
二つ目の質問は、まず、人間それぞれが同じものをみても捕らえ方が異なるという話から、御自分が常行三昧中に体験した好相の話や、予知や透視なんてものは動物の方が優れているので、できる人は「知恵遅れ」と捉えることも出来る。また、馬鹿の言葉の由来も教えて頂き、やはり体験の重要性を教えて頂き、霊感なんて捕らえ方であるという話を教えて頂いた。
行の話を本人から聞くと恐ろしく迫力があることを思い知らされました。千日回峰行なんて本で読んだりビデオで観たりしていましたが、大阿闍梨の仰る「かしこ馬鹿」に自分がなっていたんだと痛感しました。知識なんてもんは経験の足元にも及ばないことが実感できました。
エビデンスが、統計が、科学的にと知識でかしこ馬鹿になっている医療人が、個人の体験を馬鹿にするのもいかがなものかと痛感しましたね。エビデンスが出なくても崇高な体験は尊重すべきだと思いました。
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